Profile
小暮裕之について
scroll

メッセージ

MESSAGE

みんなの成長を通して社会に貢献する

豊かな今の日本だからこそ、失われた30年を取り戻すために、考える力を備えた人財の必要性を強く感じる

黒板の前で出席簿を持ってカメラ目線で微笑む小暮裕之

経歴

CARRER

「感謝が生まれる仕事がしたい」から医師の道へ

1978年 埼玉県春日部市、イエスキリストの誕生を祝う12月25日「クリスマス」に生まれる。両親は獣医師で、埼玉県春日部市の自宅の1階で開業していました。両親に加えて5人ほどの獣医師が働いていたので、規模としては大きかったのではないでしょうか。

両親が仕事をしている間、私は三兄弟の長男として、妹たちの遊び相手をしていました。面倒見がよかったので、共働きの両親は助かっていたと思います。今思えば、小さない子どもをかわいがり、世話をすることを厭わない気質はこのころから芽生えていたのかもしれません。

階下の病院からは「うちの大切な子を治してくれてありがとう」「お世話になりました」などと、飼い主さんが両親をはじめとする獣医師たちに感謝を伝える声が聞こえてきました。幼心に、「仕事をすると、人に喜んでもらえるんだ」「自分も感謝を生む仕事がしたい」と思ったのを覚えています。一方で、昼夜関係なく急患に対応する両親は非常に忙しく、家族でくつろいでいてもインターホンが鳴れば仕事場に降りていくことが日常茶飯事だったので、仕事の厳しさや経営者であることの厳しさも感じていました。
もう一つ、自分の仕事観に大きな影響を与えたのが、小学校5年生の時に経験した祖父の死です。体調が悪いからと胃カメラを受けたのですが、最初の検査では問題が見つからず、次に検査をした時には既に胃がんが進行していました。発覚から亡くなるまで、あっという間のことでした。 これが私にとって、身近で、大好きだった人の初めての死でした。最初は「あ、本当に人って亡くなるんだな」という驚きが先に立ったのを覚えています。あとからじわじわと悲しみが押し寄せてくるなかで、「最初の検査で早期発見できていたら、助かったのでは」と考えるようになり、これが医療に興味を抱くきっかけになりました。

しかしながら、大学で基礎医学を学んでいた頃は、まったく医学が面白いと思えなくて、テストの前だけ詰め込みで勉強するような学生でした。勉強が面白くなってきたのは、4年生の後半、実地の学習をするようになってからです。「どうしてこういう病気が起こるのか」「病気に対してどんな治療をすると症状が改善するのか」という実際の症例を知ることで、患者さんの喜びというものをイメージできるようになりました。

現在の研修医制度では、複数の診療科目のうちいくつかを基本研修科目として、研修医全員が一定の経験を積むスーパーローテーション研修が導入されていますが、私の時代は研修医自身が学びたい診療科を選ぶことができました。
私が選んだのは、内科、外科、小児科、耳鼻科、精神科、麻酔科、整形外科、脳神経外科、手術集中、集中治療室、ICUです。つまり、ありとあらゆる科です。動物のさまざまな疾患を診ていた両親のイメージが頭にあったのでしょう。診療科によらず「人を診る」のが医師であり、何でも診ることができる医師であるべきだ、という思いから、とにかく幅広く学びました。

当時の研修医制度の良いところは、「この診療科を学びたい」という強い思いを持つ人だけがその科を選択していたという点です。本で勉強した内容をどのように患者さんに役立てることができるのか、モチベーションの高い仲間たちと真剣に学ぶ日々は、非常に刺激的で面白いものでした。研修医として籍を置いていた旭中央病院(現・地方独立行政法人 総合病院 国保旭中央病院)の環境が非常によく、研修医を信頼してくれたことも大きかったと思います。お給料をもらいながら学んでいる、そんな毎日でした。

家族に愛されている子どもを救う小児科医という仕事

最終的に小児科を選ぶ決め手になったのは、大学時代に聞いた「小児医療の現場に人が足りない」という話です。日本の未来を担う子どもたちの健康を守る医師が足りない。これは深刻な問題です。仕事がきつい上、要求水準が高い親が増えてきて対応が難しく、薬や検査が少ないから給料も安いからだ…と聞いて、「ああ、それなら自分がやろう」と思いました。子どもは昔から好きでしたし、なり手が少ないということは、希少価値も高いと考えたのです。

もう一つ、大学1年生のときの初めての病院見学実習で小児科に配属されたことも遠因になっているかもしれません。新生児集中治療室(NICU)にいる小さな赤ちゃんのベッドの枕もとに、ご両親の写真やお守りが置いてありました。見守っているよ、というご両親の気持ちだったのでしょう。
家族に愛されている子どもたちを救う小児科医の仕事を、とても尊いものだと感じました。しかも、元気になって笑顔で帰っていく確率が大人に比べて高いので、本人と家族の喜ぶ顔をたくさん見ることができます。とてもやりがいのある仕事だ、と思いました。

小児科を専門にしようと決めた後は、旭中央病院の上司の勧めで成育医療研究センターに出向し、3年間学びました。成育医療研究センターは、日本の成育医療・研究の中枢を担うナショナルセンターであり、現代医療における最先端の情報が非常に多く集まってくるところです。

ここで学んだことで、一般の医療機関では知ることができないさまざまな知識を得ることができました。特に衝撃を受けたのが、当時のWHOの統計で、日本の乳幼児の死亡率が先進国でワースト2位だったという事実です。大学で学んだ限りでは、日本の小児医療のレベルは世界でもトップクラスだと思っていたので、信じられない思いがしました。何とか小児の死亡例を減らしたいという一心で、救急救命や集中治療を重点的に学んだのもこの時期です。

中でも小児の二次救命処置に関しては、米国心臓協会(American Heart Association)が米国小児科学会(American Academy of Pediatrics)などと協力して提唱している小児二次救命処置法「Pediatric Advanced Life Support(PALS)」の研修を受け、インストラクターとして教えられるまでになりました。

予防医療への目覚めが開業のきっかけに

旭中央病院に戻ってからは、実際に重篤な病気に罹患している子どもたちの治療を担当しました。たくさんの子どもたちを医療で救い、国内の乳幼児の死亡率低下に貢献しているというやりがいと自負を感じる一方、手を尽くしても救えない子どもたちの多さに深い喪失感も覚えました。現在の医療でできる限りのことをしても、治らずに亡くなったり、後遺症を抱えてしまったりする子どもは数えきれないほどいます。
悲しみのあまり、医療に不信感を抱くご両親には、昼も夜もなく、呼ばれれば何度でも足を運んで説明をしました。ご両親の気持ちは痛いほどわかりますし、誠意を尽くすのは医師として当然のことです。

しかし、苦しむ子どもたちとそのご家族を毎日のように見ているうち、やりきれなさが募って、私自身が次第に疲弊していきました。精神的にも肉体的にも限界を感じ、「子どもたちがこんなに苦しむ前に、何とか救ってあげられないか」と考えるなかで、思い当たったのが予防医療でした。小児医療の悲惨な現場を知っているからこそ、できることがあるのではないか。子どもと親が悲しみに暮れる悲惨な現場をつくらない医師に、自分ならなれるのではないか。そんな思いから、町のクリニックで一次医療に携わりたいと考えるようになり、やがて具体的な開業という目標へとつながっていきました。

町のクリニックでは、ちょっとした怪我や比較的軽い症状で訪れた子どもたちを診療しながら、ご両親やご家族により重い怪我や疾患の予防につながる啓発をすることができます。また、開業医として保育園や保健所に呼ばれることもあり、広く地域を診ることができるのもメリットだと感じました。自分のクリニックに来てくれる患者さんだけでなく、地域全体の予防意識を高めることができる上、他の開業医の先生方に予防の啓発の重要性を知ってもらうこともできるでしょう。

医師になって8年目、開業の意志を固めて病院を退職しました。不思議と迷いはなく、とにかく一度チャレンジしてみて、どうしてもだめだったら病院に戻ればいいという気持ちだったのを覚えています。
開業にあたり、「どんな人たちの助けとなりたいか」を考えたとき、「子どもの健康を願う、働くパパとママ」と定めた。そこで、開業エリアとして、共働きの若いファミリーが多い「有明」を選んだ。開業後は、夏祭りなど地域のイベントにも積極的に参加。ブースを設けて育児の悩み相談に乗り、地域の人々が抱える育児の課題を吸い上げた。

こうして他の病院やクリニックが行っていない「日曜日も診療」や「朝9時から21時まで診療」、スケジュールの見通しがつきやすい「時間予約システム」など、働くパパとママが利用しやすい仕組みを整えていった。

「自分のための開業」になってはいけない

クリニックを開業した医師が、やがて経営に行き詰まるようになるのはどうしてなのでしょうか。
その理由は、そもそも開業した起点にあるように思います。

「勤務医は時間が不規則だけど、開業すれば平日中心に働けて残業も少ない」
「開業医のほうが稼げそうだ」
「自分の好きな医療を追求できる」

 ――これらはいわば「自分本位」な動機です。これでも成功できるのは、極端な医師不足に悩む地域など、需要と供給のバランスが著しく崩れている場合に限られるのではないでしょうか。

歯科医師はすでに供給過多と言われていますが、今後、都心部においては一般の医師もその状態に近づいていくと考えられます。競争が激化したとき、他のクリニックとの差別化を図るには「患者さんに提供できる、オリジナリティのある価値」が必要ですが、「自分のため」に開業した医師は、そうした視点を持てていないように感じます。「水を飲みたいでしょう」とコップを差し出しても、その人の咽喉が乾いていなければ、その行為に意味はないのと同じことです。

ビジネスを始めるときは、最初に「喉が渇いている人はどこにいるのか」「その人たちに何を出したら喜ばれるのか」を考えることが大切です。「自分以外の他者のために何ができるか」を考えて始めたビジネスであれば、ターゲットとコンセプト、提供できるサービスが明確で、競合がひしめく激戦区でも唯一無二の存在になることができるでしょう。

志に共感してくれる仲間とともに、より大きな理念の実現へ

クリニック運営にあたって「経営」を学ぶ重要性を感じた小暮は、『7つの習慣』や、ドラッカーの著書、経営セミナーなどからさまざまな理論・手法を学んだ。
特に力を入れたのが組織作りだ。しかし、最初は採用すらままならず、失敗を繰り返す。最大の失敗は、採用したスタッフを定着させるために、金銭的報酬でモチベーションをコントロールしようとしたことだ。折に触れて賞与を支給していると、お金に対する欲求が満たされたスタッフは「もっと楽をしたい」という方向に要求をエスカレートさせるようになり、信頼関係は次第に崩れていった。

こうした状況を打開するため、小暮は採用・教育方針を大きくシフト。「笑顔で安心して出産や子育てができる社会を創る」というミッションと、「元気なこどもと親の笑顔が溢れている社会であること」というビジョンを採用にも打ち出し、これに共感する人だけを採用して「パートナー」と呼ぶようにした。

研修では「人の幸せとは」「当院のスタッフとして」どうあるべきかを伝えることに注力。また、顧客満足度や来院患者数といった目標に対する達成度によって基本給に業績給を上乗せしたことにより、パートナー一人ひとりが「患者さんの満足をいかに高めるか」を考え、進んで改善策を出すようになった。スタッフの考えを積極的に取り入れ、目標達成に向けた自律的な行動を支援するマネジメント方法も奏功し、今では院長がしばらく不在でも運営に支障が出ることはない。通常のクリニック運営をスタッフに任せ、小暮自身は新たな取り組みのプランニングなど、将来に向けた活動に注力している。

念願の病児保育の設立

2019年、小暮が7年ほど前から課題としてきた取り組みが実を結んだ。

「子どもが病気になるたびに仕事を休まなければならない。有給休暇を使い果たし、これ以上休むとクビになってしまう」――そんな母親の切実な声を聞き、江東区の保育課に対して「病児保育施設を拡充できないか」と、度々協議を持ちかけてきた。しかし「インフルエンザなどの感染症の子は預かってもらえない」「前日夕方までに申し込まなければならない」など、利用者にとっては使いづらいシステム。それゆえに利用率が低く、運営側は赤字になってしまう実情から、話は進まなかった。

そこで小暮は行政を動かし、予算を付けてもらうための署名活動を行う一方、認定NPO法人フローレンスと手を結んで、2019年1月に認可外病児保育室を共同開設した。赤字覚悟ながら、「24時間ネット予約可能」「感染症の子どもも受け入れ」など、共働き世帯の要望に応えるシステムを実現。この取り組みはメディアでも報じられた。

翌2月、江東区は「病児・病後児保育施設の2ヵ所増設」など、2019年度に子育て政策を充実させる方針を発表。有明こどもクリニックとフローレンスが主導するソーシャルアクションが成果につながったのだ。

IMG


豊かな今の日本だからこそ、失われた30年を取り戻すために、考える力を備えた利他の精神をもった人財の必要性を強く感じる


育自分休暇、リーダーシップ研修の強化、医療経営大学の全国展開をしていきます。クリニックで活躍するパートナーが仕事を頼まれるということも証明されました。

IMG
IMG

使


私は31歳で小児科クリニックを開業し、最初の5年は多くのパートナーが去っていきました。そして問題を解決するというコンサルに頼ったところ、8割のパートナーが同時に辞めたこともあります。しかし、その経験を通して、自分自身が医師という職人ではなく、経営者にならなくてはならないと気づくことができました。


夢なき者に理想なし。理想なき者に計画なし。計画なき者に実行なし。実行なき者に成功なし。故に、夢なきものに成功なし。 吉田松陰

IMG